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2016年12月10日

#40『暗くなるまで待って』

スクリーンの妖精オードリー・ヘップバーンが盲目の女性を演じたことで知られるサスペンス映画。他の作品群に比べて知名度は今ひとつだが、作品の質は折り紙つき!彼女が出ている作品の中で最もサスペンスフルな恐怖を描いた一本。アラン・アーキンの悪役も是非ご覧あれ。


オードリーが盲目の女性に挑戦
盲目の女性を演じるのは日本人が大好きなオードリー・ヘップバーン。もちろん私も好き。個人的に細い女性が好みなのだが、この映画のヘップバーンはまた細っそい細い!それは当時結婚していた製作のメル・ファラーと離婚危機などのストレスで7キロも痩せてしまったことも起因しているのだろう。

しかしそれがこの映画の役である盲目の女性と与えられたポジションに素晴らしい効果を付加させた。

交通事故によって盲目となり、しかも守ってあげないと壊れてしまいそうなほど細い体をしている女性が得体の知れない三人の男からいかに逃げ切ることができるのか?ものすごく彼女を応援したくなるシチュエーションというものに「細い体」というのはいかにも効果的だった。

しかも他の映画のように彼女を美しく、そして可愛く撮さず、シワをあまり隠したりせずにかなりスッピンに近い形で画面に登場するあたりもお見事。なぜなら盲目なので、自分でお化粧を施せたとしても、一般の人のような形にはならないはずだからである。

オードリー・ヘップバーンは美しさと可愛さが共存しているような女優さん(どっかで聞いたことのある言葉だな)で、日本ではビジュアル・イメージが強く、アイコン的な側面が強調されやすいが、彼女は演技が上手い。作品によってムラはあるけれども、この作品は彼女の持つ演技力がしっかりと堪能できるのでその点も是非注目して欲しい。


サングラスがもたらす効果
三人の悪人も中でもやはりアラン・アーキン演じるロートンは見事な演技だ。なぜアカデミー助演男優賞にノミネートすらされていないかが不思議なくらいだ。

ポイントは黒のサングラスだろう。彼は登場してから映画の終盤までにサングラスを外すシーンというのは一度だけで後はずーっと着用している。

観客はA・ヘップバーン演じるスージーの目が見えないことは承知済み。だが、人というのはそれでも人の目を見て感情を読み取ろうとする。一方、ロートンの目は普通に見えているはずなのに夜もサングラスを外さないので心で何を考えているのかわからない不気味なキャラクターとして登場する。

つまり、観客は目が見えないキャラクターの目を見ることはできるのに、目が見えるキャラクターの目は見ることができないという構図を作り上げているのである。

ちなみにこのようなサングラスがもたらす効果は「相手が何を考えているかわからなくさせる」効果と、同時に「演技が下手なことがばれないようにする」効果もあるらしい。もちろんアラン・アーキンの演技は折り紙付きで、執拗で冷酷な犯罪者を見事に演じ切っているため前者の効果が抜群に発揮されている。では後者の例としてはヒッチコックの『サイコ』のマリアンの車が警察に止められるシーンにおいて、警官はロートンのようなサングラスをしているがこれは警官役の方が演技があまり達者でなかったためにサングラスを用いたらしい。


演劇、映画の特性を活かした仕掛け
映画の中盤以降から段々と追い込まれていくスージー。映画のポイントポイントに謎やショック、ひねりを散りばめているので今見ても非常にスリリングな体験をさせてくれる。なっては鳴らない電話の音によってスージーが絶望に叩き落されるシーンや、絶対に声を上げるであろう名場面、そして盲人のスージーが最後の最後にあるものを武器に死闘を繰り広げるシーンはかなり画期的、つうかそれ、やっていいの?的なビックリする仕掛けだ。

元々は舞台の映画化であるが、これは本当お見事としか言いようのない展開が待っている。これはテレビではだめだ。舞台か、もしくは映画館でしか十二分に発揮できない衝撃の演出があなたを待っています。

※以下は、ネタバレを含みます。未鑑賞の人はご注意を

闇を味方
ラストで家じゅうの電気を壊して、真っ暗にするシチュエーションはこれまでの演劇や映画の中でもかなり類を見ない。暗闇の中で物語が進行するケースはたまに見かけるが、この物語ほど暗闇でストーリーが展開してゆくことに必然性とサスペンスを付加させたケースはないだろう。

暗闇で何が起こっているかわからない恐怖というものは納得できる。しかしこの映画では暗闇になることで逆に安心感が生まれ、ヒロインと悪人の力関係が崩れるところがミソである。

そもそも、映画や演劇を見ていて真っ暗闇の中台詞だけが聞こえてくるようなシーンが続いたら「ちょっと待て!見せんかい!」と言いたくなるが、この映画ではできるだけスージーの為にも暗闇が続いてほしいと観客はどこかで感じ、同時に何が起きているかも知りたいという不思議な欲求が生まれてくる。

そこに冷蔵庫の光が点く瞬間の絶望感!もうこれはシチュエーションや設定を徹底的に考え、そして十二分に活かした素晴らしい例であろう。

ちなみに、実は死んだと思われていた悪人が実は生きていた、という要素は今ではよく使われる要素だ。しかしその走りはこの映画ともう一本のフランス映画だ。それはネタバレになるのでまたいつかレビューしますね。

また、散りばめられた伏線として、映画の冒頭において「私はバットマン」とスージーの台詞があるが、バットマンも都会の闇の中でゴッサムシティの悪人たちと戦っていることと実はかけていたりするのだ。


闘う女性の物語
映画の冒頭スージーはできるだけ自分一人であらゆることをこなそうとする。床に落としてしまった調味料を夫は拾ってあげようとせず、まずはスージーが自分の力だけで拾おうとする。それでも見つけるのが困難であるようだったらヒントを与えるというあくまで自分で最後は解決する能力を彼女は身に着けようと必死だ。

これによってスージーが単なるか弱き女性なんかではなく、目の前に立ちはだかる見えない恐怖にもなんとか立ち向かって行く理由にもなるし、映画のラストにおいて夫からスージーに抱きつかずにスージーから歩み寄って夫と抱き合うシーンの感動が増幅するのである。その時二人の目に浮かんだ涙の意味は単なる「無事で良かった」だけではなく、自らの力で戦った者の心の底からの満足感だろう。

不幸な事故に合って、このような偶然から派生した災難に巻き込まれ、かなりのハンディキャップを持ち合わせていようとも、機知と勇気。そして盲目になってしまった為に養われた生きるための能力である「音を鋭敏に感じること」を十二分に発揮させて最後まで戦おうとするスージーの姿は本当に感動的だ。

「命だけは勘弁してください」とか「私は盲目なのよ!」とかを一切言わず、あくまで一人の人間として何としても闘ってやるというスージーの強いヒロイン像は今見ても観客を魅了させ、同時に勇気を与えてくれることだろう。

■最後のひと言
昨今、色々な箇所で映画を観ることができる。少し前までポータブルDVDプレイヤーがあって、今はスマホで伝播さえあればどこでも観られる。もはや、映画を観に行く時代から、持ち歩く時代を得て、受信するまで未来はやってきた。

別にこの事に否定的な意見を述べるつもりじゃないし、映画館こそ至高!というスタンスでもない。

けれど、やはり映画は暗い所で観ると味が出る娯楽であり、芸術だ。

絵画や文学、建築や彫刻は光のない所では殆どの作品は真価の光を発さない。けれど映画は別だ。

暗闇の中で起こる物語こそ映画だった。

新しい形の映画の見方もそれはそれで一つの発展だ。けれど暗闇の中でこそより一層より光り輝く力を持つ素敵な芸能だ。

この『暗くなるまで待って』は正にそれを最大限に活かした作品だ。

公開当時、ラストシーンでは「煙草を吸うのをご遠慮下さい」いう注意がなされた。この時代、劇場で煙草を吸うのを許されていたけれど、ラスト漆黒の闇が画面だけでなく、劇場にも覆うようにだ。それほどこの映画は暗闇を大事にしている。

今の時代、本当の暗闇がなくなっている。だからこそ、この映画をいつか映画館の暗闇で観た時、またこの作品の再評価ぎなされるだろうと思うのだ。

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