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2017年12月03日

#50『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』

日本文化への尊敬の意に溢れた全く新しい昔話を世界最高峰のストップモーションアニメーションで描かれるライカ発の冒険活劇の楽しい映画!かと思いきや…中心には物語ることに対しての想いを散りばめられた快作。

 



※ネタバレ注意。観賞後にどうぞ。

 

■めでたしめでたしを探す物語

今作の予告も見なかったのでポスターのヴィジュアルイメージからストップモーションによる冒険絵巻なんだろうな、という印象だけで観に行ったら仰天しました。

 

もはやここまできちゃったのかと口があんぐり、目が大喜びの卓越した映像と、三種の伝説の武具を探し、敵を倒すという単純明快ながらもそこに家族のきずなをしっかり織り込んだストーリーというこの二つだけでも十分おつりがくるほどの満足な作品なのに、物語の途中からとんでもなく大きなものをぶち込んできましたね。

 

それは物語ること自体への問いかけです。

 

私はこのようなことを問いかける物語が大好物でしてね。まさか、ここでもお目にかかれるとはね。

 

恐らく、この映画は現在進行形の作品ではありません。この映画はクボとサル、クワガタの冒険を追っていますが、恐らくそれはもう終わってしまった後の話です。なぜならこの映画はクボのナレーションから始まり、彼の「おしまい」とう言葉で幕を閉じます。

 

これはクボが誰かに物語っている話を聞いた誰かのイメージ映像なのだと思います。元となった冒険の話がどこまで本当なのか、そもそもクボが魔法を使えたのかもわからない。ただ、根本には現実に起こった現実や現象があって、そこに想像力の魔法を振りかけた物語を語っているのではないかと。

 

この物語は結末がなかった物語のめでたしめでたしを探す旅路でもありました。心の壊れそうな母から聞かされた途中の御話を幸せな結末までいざなってあげるクボの冒険の旅だった。

 

映画の結末ではお盆で母と父に挟まれたクボの姿を映して「おしまい」となるが、ここで終わったの「母」が途中までしか話せなかったお話をクボが一緒に終わらせてあげたのでしょう。台詞でもはっきり「そして、僕たちはこの物語を終わらせるだろう、一緒にね」と述べている。母親だけでは終わらせられなかった物語を一緒に終わらせたことへの安堵。

 

そして作中サルによってこうも語られている。「一つの物語の終わりは、もう一つの物語の始まりに過ぎない」と(それを折り紙で例える雅さよ!生まれ変わりをこう表現したものか!)。

 

これから、本当のクボの物語が始まるんだろうな、と始まりを感じさせる見事な「おしまい」でした。

 

■文化を用いた隠された伏線

この映画では様々な日本文化特有のものが出てきます。折り紙、三味線、富士山に似た山やがしゃどくろ等がキャラクターを特徴付けたり、はたまた物語の重大なキーだったり、さり気なく映したりと。

 

異国から見た日本の姿を背景として設定する。このような映画はたくさんあるし、そこに私たち日本人との認識のズレにより違和感が生じるのは否めないし、それも一つの味としてある程度までは享受するものかなと私は考えます。

 

しかし『KUBO』を観ていて、作り手達は日本の文化を単なる「映画に物珍しさを加えるスパイス」ではなく、しっかりと物語を織り成す大事な糸である事が細かい所で感じました。それは伏線です。

 

まず、クボがお盆でお父さんへの灯籠を作るも火が灯らないことに失望するシーン。この時、何故灯りがともる事がなかったのか。それはまだ父親が生きているからです。お盆は死者を迎え、見送る日本版の死者との祭り行事であるという根っこを掴まないと出てこない上手い伏線です。

 

もう一つは、ふすまです。

 

クボの父親がいた屋敷に到着した際、ふすまに描かれたクボと両親の絵が映ります。そして、このふすまはクボと、両親を引き離すように開きます。これは後の戦いによって引き裂かれる運命を示唆しているのでしょう。

 

昔聞いた話ですが、海外の人はふすまという建設様式を不思議に、そして面白く感じるそうです。なんでも横に動くことによってアスペクト比が変わるのが何とも素敵だ、とのこと。映像でもふすまというのが出てくると、どこかカメラマンの本能をくすぐるのか面白い見せ方をしようとするケースが多いように見受けられます。そこまではよくある。画面比が変わることの、奥行きのある空間をパッと映し出す映像的面白さを使いたくなるのは至極当然。

 

だけど、クボでは敢えてそのふすまに描かれている絵と、真ん中から分かれる仕組みも使って何か映画的要素を付加できないか、と考えてあの伏線を描いたのではないかと思います。

 

ライカの映画を観るとストップモーションのあまりの見事さに酔いしれてしまいますが、ちゃんと映像で語ることに対しても素晴らしい水準で向き合っている事を感じます。

 

■語りだす痕

この映画の登場人物は顔に何かしらの跡があります。クボは左眼、母は左目に傷、父であるビートルは実は歯が欠けています。ちなみにサルも右目の下に傷がありますし、お守りにもあります。そして、物語の後半ではクボの右頬に新たな傷が生じています。普通のアニメーションだと怪我をしても後々のシーンではいつの間にか治っていることが普通なのにも関わらず、クボの傷痕は残ったままです。

 

この辺りはかなり勝手な推測になりますが、これらの顔に遺された痕跡もまた、三味線での唄や伝承などと同様ストーリーを語らせる道具の一つとして描かれているのではないか、と思うのです。ただし、これは耳ではなく、目から送り込まれる情報としてです。

 

『ジョーズ』では身体に遺った傷痕ができた理由を話して競う場面があります。タトゥーは元々その人物の地位や身分、功績や結婚の有無を表したりするものでもありました。

 

身体に痕を残すことはその人が生きたことを刻むことでもあるのです。その人の歴史、背景、過去のかけらが否応なしに描かれるのです。

 

逆に今作でクボ達が立ち向かう側のキャラクターの顔には傷が見えない。闇の姉妹は仮面で素顔を隠しており、月の帝は綺麗な顔をしています(盲目のふりをしていましたが)。

 

しかし、月の帝はクボとの戦いのうちで右目のあたりに傷を負います。そして彼が人間の姿になった時にもその傷痕は残っています。彼もまた顔に何かを残したことによってもクボ達側の人物として迎え入れられるのではないかと思うのです。

 

エドナ・ファーバーという女性作家が書いた“So Big”という小説の中で、痕一つつかないような人の顔についてハッとさせる一節があります。

 

「志をとげようとして苦闘して来た人にはなにかある…(-中略-)…闘って、もがいて、貫き通したのなら…そうよ、その戦いは今日のあなたの顔、目とか顎とか手に、表れているわよ。いい、けちをつけているんじゃないのよ。けどあなた、まるで…すべすべだもの…」。

 

■最後のひと言

この映画を観終わり、反芻をしていた時にふと思い浮かべた映画がありました。それはデイヴィッド・リーン監督作『ドクトル・ジバゴ』です。どこかこの作品と共通しているな、と。

 

親から引き継いだ楽器があり、綴る喜びがキーになる。そして最後に残るは子供と紡がれた詩のみ。主人公ユーリが過酷な歴史の渦に巻き込まれながらもこの世に残した子供と詩がこれからの希望であることを示唆して物語終わります。

 

生き物の目的は子孫を残すことである、と言われています。

 

確かにそれはそうでしょう。人間も勿論しかり。子供を作り、育て上げることが誤っているなんてことはないでしょう。

 

言い換えると、生物は自分がこの世に生きた痕を残したいんだと思います。

 

だけど、私は人間だけは違った方法でもそれを行うことができる。

 

それは物語ることです。

 

思い出や、出来事や、感情を言葉にのせて誰かに伝える。唄であり、詩であり、物語でありと、様々な方法を私たちは持っている。これは言葉を操れる人間だけが持ちうる力。子供をつくること以外で自分の生きた証をこの世に刻むことのできる能力です。ありとあらゆる芸術の目的もここにあると私は考えています。

 

私たちの人生はこの世に生きた時間だけのものなのか。それに贖うことができるのか、という問いかけに物語ることは「違う」と力強く言い返すことができる。誰かの想像の中に生き続けることができる。恐らくそれは、その人が生きた時間すらをも超えて計り知れない時を刻むことがあるかもしれない可能性を秘めている。

 

思い出が強いのは単に現実に立ち向ったり、心に安らぎをもたらしてくれる道具だからだけではありません。

 

ここに存在しない過去を蘇らせてくれるからです。過ぎて消えて去っていった事柄を、死や無から連れ戻してくれる素晴らしい能力だからです。

 

クボの母と父は、子供を授かり、そしてその子が自分たちのことを語り継いでいてくれる。そんな人生における大きな安らぎを得られた親の姿と、一人の男の子が自分の物語の一歩をまさに歩もうとしている瞬間を、気の遠くなるような労力と時間と愛によって織り成し、綴った極上の絵巻です。


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