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2017年03月05日

#45『ラ・ラ・ランド』


アカデミー賞作品賞の本命!ハリウッド界からの絶賛に次ぐ絶賛!映画サイトも軒並みの高評価!だけど、フタを開けてみると…結構賛否両論な感じでしたね。

 

意見が分かれるのもわかる気がします。求めていたモノと違うと感じる人、過去のミュージカル映画を観ていないと楽しめないと言う人、とにかく最高だった!などなどの意見が飛び交っていますね。

 

私の意見としては、中途半端なんですが…いい作品だとは思います。しかし、諸手を挙げて大絶賛はちょっと…って感じです。

 

まず、ちょっとこれは…って点を挙げて、次に良かった点、最後にこの映画はデートに向いているかいないのかについての見解を述べます。


※ネタバレ前提です。未見の方はご注意。


■自己中心的なヒロイン

オープニング、始まってからハイウェイの渋滞からいきなりミュージカルが始まるシーンは最高です。もう開始一発目に映るの車たちの色から最高でしたね。明るい色の車が均等に距離の取られた車間距離で次々と映し出されて、ちょっと暗い色の車が映ったかと思ったらミュージカルが始まり、また明るい色の車が停まっている前の道路にカメラが映っていく。現実ではない作り物の世界から一瞬だけ現実に戻して、すぐにまた作り物の世界へ戻る。ミュージカル映画そのものを表しているような色とカメラワークによる演出からのミュージカルシーンスタートはたまりませんでした。

 

そのミュージカルが終わった瞬間にタイトルがバンッ!っと出た時、映画のオープニングで「これからスゲェ楽しそうな時間が始まりそう!」とワクワクさせてくれたのは昨今では断トツの幕開けだと思います。

 

それから多くの人が気に入っている“Someone in the crowd”のナンバーも素晴らしい!うら若き女性たちがバッチリとおめかしして、パーティに出陣して「今日は狩ったる!」って感じのバイタリティーと、力強さと、前途洋々な明るさも感じられて私はこの映画の中で一番好きな曲です。歌詞もミアの行く末を暗示させていたりと仕掛けもあってバッチリでした。そのことについての詳しいことは少しに後に回します。

 

さて、問題はミュージカルシーン以外の部分です。

 

ミュージカルシーンは本当に良かった。レベルが高いかどうかではなく、昔のミュージカルを観た時の驚きを最新作で感じられてるって実感が確かにありました。いくつものシーンで「おぉ!」と脳と目が喜んでいましたよ!

 

しかし、ドラマパートが全然ノレない。エマ・ストーンはとっても可愛いし、ライアン・ゴズリングも様になってる。しかし、私はミアとセバスチャンというキャラクターに共感の念を抱くことはできませんでした。

 

それは、この映画ならではのキャラクターというよりかは、夢を追っている若者という存在をミアとセバスチャンに象徴させているからかなと思います。言い換えると映画で描きたいテーマ用に作られた人形のようだな、って印象を拭えませんでした。

 

なのでミュージカルシーンで心地よく気持ちよくなっていても、現実のパート(つまり、ドラマ部分)になると、どんどんその温度が毎回下がっていきました。これ、3年前にギャレス・エドワーズ監督『ゴジラ』でも感じたことでした。見せ場とドラマシーンの魅力がかなり乖離している。ずっと魔法にかけられている感じがしない。いや、もしかしたらこの映画のテーマと合っているのかもしれません。しかし、それと面白いは別の話かなと。

 

あと、問題のミアが映画館のスクリーンの前に立つ、ってシーン。いくらなんでも何処に座っているか分からない人を見つけるためといっても…と映画ファンは結構ツッコミたくなるポイントだったと思います。

 

でもあれも伏線なんでしょうね。

 

まず、表面的なものとしてはミアの自分勝手な性格が表れていると思います。彼女、喫茶店でのバイトでも夢追いかけることばかりで店に迷惑をかけているし、あんな店員はマズいよ。また、音楽にのせてはいるもののバイト辞める時も店長怒っている感じは伝わってきましたしね。彼女は恐らく普通の社会ではかなりマズイ人間なんだろうなってことは所々に感じられるんです。だからあのスクリーンの前に立つ行動もなんかさもありなん。

 

ですが、前述した“Someone in the crowd”の歌詞の中に

 

Someone in the crowd will take you where you want to go

(群衆の中にいる誰かが、貴方が望む場所へ連れて行ってくれる)

 

とあり、それは群衆の中にいたセバスチャンだった、というミュージカルの歌詞とリンクさせていると考えられます。

 

また、ミアの一人舞台の演劇シーンでもミアの背中とまばらにしか席が埋まっていない観客席が映ります。映画館の観客も、そんなに入っていませんでした。つまり、ミアは二度観客があまり埋まっていないステージの前に立ちます。

 

そして、彼女は二度目の“群衆の中の誰か”が彼女の行きたかった場所、つまり、映画女優への道へ誘うことになります。しかも、それは一度目の群衆の中にいたセバスチャンが電話を受け取り、ミアにそのことを伝達するという中継役としての役割を果たしています。

 

とまぁ、こうゆうさり気ない部分は凄く面白い!けど、それでもキャラにはノレなかったよ

 

※断っておきますが私はエマ・ストーンもライアン・ゴズリングも好きです。『ラブ・アゲイン』の時の二人とか最高ですし、『小悪魔はなぜモテる?!』のエマは魅力が特Aです。

 

■今ではないどこかへ行くための起爆剤

また、映画をしこたまご覧になられている方は「あぁ、ここは過去のミュージカル映画のオマージュね」とニヤニヤできるのもまぁいいでしょうね。それでこの映画を観て楽しめない人は過去のミュージカル映画を観ていないからだ、なんてふざけた意見もありますがそんなのは気にしなくていいです。

 

むしろ、私はミュージカル映画ではなくクラシック映画『カサブランカ』への愛の捧げ方が粋だなって感じました。

 

ラストシーン、セブズのバーでミアとセブがお互いを見て固まるシーンは『カサブランカ』でリックとイルザがリックのアメリカン・カフェで出会うシーンへの引用と考えてまず間違いないでしょう。

 

なぜならミアは旦那を連れて、昔好きだった男性の営むバーで音楽の中で出会うんですから。そして店の名前もミアの提案したセブズ(セブの店)になっていますが、『カサブランカ』ではリックのアメリカンカフェとオーナーの名前を店の名前に置くことも繋がります。

 

『カサブランカ』では、リックがお店では決して弾いてはいけない曲があります。それがこの映画のテーマ曲ともなっている“As Time Goes By”(日本語タイトル:時の過行くままに、しかし意味としては「いくら時間が流れようとも」の方が合っていると思います。カッコいいタイトルではありますが)。その曲をピアニストが断りもなく弾き始めたのを耳にしたリックは怒ってピアニストの元に行くと、そこには昔の恋人イルザがいた、という映画史上に残る再会のシーンです。そしてこの曲を演奏することを禁止した理由が後々わかります。リックはこの曲を聴くとイルザとの思い出が蘇るからです。

 

これは素晴らしい映画的な表現だと思います。人が過去の記憶を思い出すキッカケ、云わば起爆剤となるのは匂いであると言われていますが、それを映画では表現しにくい。だけど、音楽もまた過去にその曲を聴いたときのことを想起させる強い作用があり、そのことは多くの人が経験していると思います。

 

『カサブランカ』の話が長くなってしまいました。『ラ・ラ・ランド』に繋げましょう。

 

『カサブランカ』ではリックはイルザとの楽しかったパリの思い出に浸るシーンがあります。この映画の中では過去の思い出しか描かれませんが、『ラ・ラ・ランド』では思い出の曲で"もしかしたらあったかもしれない人生"の幻想を描きます。それはリックが思い浮かべることのできなかったものです。それを今回はほぼ同じシチュエーションのキャラクターに違ったベクトルの"頭に思い浮かべる映像"を観せることが、『カサブランカ』への優しいオマージュにも思えるし、『ラ・ラ・ランド』の自分の夢を叶えたとしても、叶わなかった夢がある寂しさとも混じり合って非常にアンビバレントな余韻を残していると思います。

 

これはデミアン・チャゼル監督の前作のラストで描かれた音楽の持つ力をまた違った種類のものを描いていると考えています。

 

『セッション』ではぶつかりあっていたアンドリューとフレッチャーが暴力的でイレギュラーなセッションによって音楽の本来にあるべき喜びを再発見していることを、音楽と表情の演技で表現している素晴らしいシーンでした。音楽の本来あるべき姿とは“楽しい”だと思いますし、この映画のラストで二人が音楽をやっている上で見失いそうになっていたもの、そして音楽で取り戻した輝きだと思います。日本語だと正にそう漢字で書きますしね。

 

では『ラ・ラ・ランド』ではなんでしょう。それは“今ではないどこかへ行くための力”があることではないでしょうか。

 

最後のエピローグにて、全てが望むままに叶えられたハッピーエンドの世界、SF風に云えばどこかの次元に存在する二人の世界が思い出の曲によって始まり、そして彩られていくようすはこの映画の最もファンタジックで、ミュージカル映画だからこそできる描かれ方だと思い、文句なしに素晴らしかったです。

 

この映画はエピローグともう一つの楽曲以外は現実の世界の中で踊り、唄っています。

 

昔だったらスタジオで背景は絵で撮るという撮影方法ではなく、あくまでアナログで、昔作り物で描かれていたスクリーンの魔法をCG全盛期の現在にあえてやるという所が技術的にも面白いし、だからこそエピローグのシーンが特別際立つものになっているのではないでしょうか。

 

もう一つ、いくらなんでも現実ではありえないミュージカルシーンは宇宙での二人のダンスですね。でもあれは、恋に落ちた直後ってことで宙にも浮く感覚ってことなんでしょうね。

 

■最後のひと言

この映画ってデートに向いていると思いますか?

 

私は向いていないんじゃないかなって感じています。僻みとかではなく。むしろ止めておいた方がいいんじゃないかな。

 

だって、最後の最後で描かれているのは夢のために愛を犠牲にしたカップルが幻想の中だけでも幸せになれたってシーンですよ。

 

そんなの、昔好きだった人も思い出すに決まっているでしょ…。

 

私はソロ活動で観に行き、思う存分ラストシーンに浸り、帰りの夜、昔好きだった子のことを思い出しながら帰路につきました。

 

この映画を観る時に連れて行くのは過去の思い出がピッタリのような気がします。

 

自分の想像の世界だけに描かれた今の自分が歩めなかった幸せな人生の幻想を誰にも言わず夢見る。傍から見たら気持ち悪いでしょうし、パートナーに知られるのは避けるのが無難です。しかし、脳の中の世界は人には見えませんから。

 

ですが、この映画はその人生の幻想を音楽の力で共有する、という正に映画ならではの魔法としか言いようのないラストシーンで終わるのは文句なしに最高でした。

 

そこには過去どれだけミュージカル映画を観たかとか関係ないです。叶わなかった夢にレクイエムをおくる人々の姿に、自分を照らし合わせるかどうかではないかな、と私は思います。


コメント欄

ミッフィー (2017年06月09日 02:43)

え〜、ララランドの監督の気持ちめっちゃわかる〜、一番好きなミュージカル!と思った私にとっては、ちょっとショックな評論でした。笑
「自己中」「自分勝手」?!
日本人ならではの固定観念ですね…
まず、「普通の社会ではかなりマズイ人間」と言うようなキチっとした人には向いてない映画だと思います。
この映画のメインメッセージ、これですよ。
「here's to the ones who dream, FOOLISH as they may seem...(略) A bit of MADNESS is key
to give us new colors to see etc」

あと、非現実的な要素と、リアルな要素が見事に複合してる映画だと思います。
非現実的なところは、宇宙で踊るところとか、映画館のスクリーンの前に立つシーンとか、音楽が主人公の心を語ってるところです。常識的か迷惑かどうかどうでもいいんです、ここは。
音楽が流れてるシーンは全部、心を描くのが目的なので、主人公目線です。だから、食事中に席を抜け出すところや、バイトをやめるシーンなどは、主人公が自分の心に従って力強く生きてるのを見せてるんです。

リアルな要素は、音楽がない部分に多いです。セバスチャンがピアノ引き終わった後、ミアにぶつかるところとか、リアルな会話とか、映画じゃないようなリアルな恋愛関係とか。

「夢のために愛を犠牲にした」って言う人よくいますけど、本当の恋愛関係はもう、考え方のすれ違いが起きている時点で、終わってしまっています。
むしろ、夢で結ばれた二人なのに、セバスチャンが安定を考えて自分の夢を犠牲にし始めたところから、関係にヒビが入ってるんです。
ディナー中に言い争いになって、CDがプチッて終わった時点で、彼女は冷めてます。
その後は、お互い情が残っているだけです。
そういうところもかなり現実世界によくある恋愛って感じ、リアルだな、と思いました。
だから、あのハッピーエンドじゃない終わり方、それまでのストーリーと一貫性があって、完璧だなと思いました。

確かにデートに観に行く映画じゃないですね。でも先にオチも言えませんからね。笑

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